本記事のキーポイント
シートピア計画と飽和潜水
1970年代に国家プロジェクトとして始動したシートピア計画は、水深300mでの作業を目指し海底居住施設や飽和潜水技術を開発。体内にヘリウムと酸素の混合ガスを飽和させる技術を確立し、1988年に深海到達を成し遂げた。
浮力課題と探査ロボット
海底都市の実現は、構造物が持つ巨大な浮力に伴う係留コストの課題により断念された。しかし、この挫折を機に技術の主力は有人・無人深海探査機や作業ロボットへシフトし、日本の深海探査技術を大きく進化させた。
救助技術への継承と展望
計画で蓄積された飽和潜水の知識とデータは、現代の海難救助や水難救助の現場で命を守る技術として広く活用されている。海底居住の夢は形を変え、最先端の深海探査機による未知への挑戦として今も引き継がれている。
ドラえもんの映画で描かれた海底都市を、幼い頃にみた記憶がある人は多いだろう。人が海の底に街を築き、そこで暮らす。子供の頃はただの空想と思っていたが、実はかつて日本で、それに近い実験が本気で進められていた。「シートピア計画」である。
『シー(海)』に理想郷『ユートピア』を掛けたこの計画は、1970年代、人が実際に海底に滞在し作業するための技術確立を目指したらしい。近年、レアアースなどの海底資源に再び注目が集まるなか、海底都市構想はどうなったのか。
話をうかがったのは、当時、飽和潜水と海底居住実験の最前線にいたJAMSTEC(海洋研究開発機構)の長根浩義さんだ。計画の発端はJAMSTEC設立より前、1968年に科学技術庁が社団法人海中開発技術協会へ潜水技術の研究を委託したことにさかのぼる。
「社団法人でできる範囲での潜水の実験を続けていたそうですが、やがて水深100mという目標が出てきました。しかし、規模が大きくなると民間予算では難しくなってきました。そこで1971年にJAMSTECを立ち上げ、国家プロジェクトへ移行したんです」
アポロ計画に象徴される開発への夢が人類を突き動かす時代だった。ところが日本は、海洋国家でありながら海洋開発が遅れていた。西欧諸国が飽和潜水技術で300mを目指すなか、日本には飽和潜水の技術がなかった。おまけに1972年のオイルショックで、自国内での資源開発の必要性が叫ばれ始める。日本近海の大陸棚をカバーするには、300mまで潜れる技術が必要とされた。
国の予算も入り、実験は急速に深度をあげていく。1972年に30m、翌年60m、1975年に100mへと、生身の人間を送る技術の確立に成功した。深海に生身の人間を送る潜水法を「飽和潜水」という。体組織にガスが溶け込み「飽和」した状態で潜る技術だ。
通常の空気で潜ると、水深30mあたりから窒素が過剰に体内へ溶け込み麻酔作用を及ぼす(窒素酔い)。50m、60mになると簡単な計算もできなくなるそうだ。そこで麻酔作用の少ないヘリウムと酸素の混合ガスに切り替え、浮上時は「潜水病(減圧症)」を防ぐため、どの速度で減圧すべきかのデータを積み上げた。
あわせて1971年からは、海底作業の拠点となる滞在施設「ハビタット」も開発された。ダイバーはこの拠点を用いて、海底60mで2泊3日を過ごしている。
「海中ではハビタットの小さな窓からもれる明かりに魚が寄ってきました」
海中に設置されたハビタット(海底居住装置)。本来は黄色に塗られ、窓の明かりに魚が集まった。陸上展示用は景観への配慮から白く塗装された。