頭が冴えていて思考を深く巡らせるのに適している朝の時間は、抽象的な議題について話されている動画を視聴しながら出社するのが日常だ。入稿前の仕事に忙殺されて、判断能力が劣っている時には朝であってもややこしい話は聞けない。森林浴や川のせせらぎを流し始める時が私の危険信号になっている。
今朝の話題は、「本を読む人の気持ちがまったくわからない」というものだった。かさばるし、持ち歩きできないし、など、紙の本がデータや電子書籍等に劣る話が延々と展開されていた。職業柄、本の良さは何度も考えたことがあるが、私が行き着いたのは、味以外の五感を刺激されながら情報や物語と向き合えることに対する充足感だと考えている。
人には「なんだか惹かれるもの」が存在し、なんだか本が好きな人は記憶が五感と紐付く感覚が好きなのではないかと考えている。
問題提起から対談相手はしばらく沈黙を貫いたが、口火を切ったように返した言葉が「彼女はいらなくてデータで良い?」だった。思考が柔軟というか、ユーモアが効いているというか、ぐっと惹きつけられる返しだった。
人との触れ合いと同じように、モノとの触れ合いもあって良しとするのであれば、「本というマテリアルにこだわっている人の気持ちも、少しはわかるのではないでしょうか?」というまとめにはつい頷かされてしまう。
劣勢に思えた議論を振り出しに戻すこの秀逸な質問返しで、データでは語れない魅力——つまり“触れられるリアル”が浮かび上がった。さらに続いたのは、「人は非論理的な部分を知りたいのかもしれない」という言葉。それに対して返されたのは、「その非論理的な部分を論理的に説明してしまうと、たいていは嘘になってしまう」という、静かな本音だった。
それは、捻くれているわけではなく、人間の合理的でない活動は、むしろ合理的な思考の上にこそ成り立つのだという理解がにじんでいて、聞き入らずにはいられなかった。
感動した物語が、紙の本として手にずっしりと収まる感覚。読んだページと、まだ読んでいないページの差を、両手の厚みで感じるあの手触り。恋人の好きなところを誰かに聞かれても、上手く説明できないように「言葉にならない愛着」は存在する。それこそが人間らしさの1つなのかもしれない。