私には夢がある。
それは、いつの日か私の幼い子どもたちが、肌の色ではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(Martin Luther King Jr.)、キング牧師のリンカーン記念堂での「I Have a Dream」と繰り返される有名な演説の一節だ。
のちに彼は非暴力抵抗と公民権運動に対する貢献が認められ、ノーベル平和賞を受賞することとなる。悲劇的な最後を迎えた彼の描いた「自由」は、アイザイヤ・バーリンが「自由論」のなかで提唱した2つの自由のうち、消極的自由(Negative Liberty)を追い求めた英雄であったように思う。
バーリンの自由論のなかに書かれた個人が外部の制約や強制から解放されて、自分の意思に従って行動できる開放というニュアンスの「消極的自由」と、自らの意志に従って決定できること、派生して自己の意思を実現するための力や機会を持つ支配というニュアンスの「積極的自由」は、自由という言葉に内包される性質を分解し、考えるきっかけを与えてくれる。
そして積極的自由の追求は、時に集団や国家による個人の支配につながる危険性を哲学的に説く本だ。大いなる自由には大いなる責任が伴う。
消極的、積極的という言葉だけでみれば、後者の方が良い印象を持つ人も少なくない。しかし、自己の意思を実現するための力や機会を得るための行いは、他方の自由を制限する危険性を孕む。自由にはさまざまな形があるものの、過度で利己的な自由の追求は持続的ではない。世界の理を繊細に表現していると思う。
表紙を飾ってくれた関口メンディーさんは、本誌のインタビュー前日に所属事務所の卒業を発表した。決断に至るまでには、私には計り知れない葛藤があったことと思う。なんの縁か彼は私と同じ1991年生まれだ。この出会いに刺激を受けて、彼がインタビューのなかで話題にしたスペンサー・ジョンソン著「チーズはどこへ消えた?」という本を読み返した。
変化は避けられないという大前提と変化に対応する柔軟性と適応力、そして何より恐れを乗り越えて行動することの意義を洞察する名著だ。
目まぐるしく移りゆく時代のなかで、変化への適応というある種の生存戦略は、奇しくもバーリンが説いた自由という眼鏡を通してみても、理に適っているように思える。私の目には、変化に柔軟に適応しながらさらに高みを目指す姿と、外部の制約や強制から解放されて、自分の意思に従って行動できる「消極的自由」を追い求める姿の両面が映った。
自由という言葉は福沢諭吉が「liberty」を「自らをもって由となす」と訳したのが始まりとされている。
自由という言葉にはそもそも、自由が他人に与えられるものではなく、「自らの意思や考えが行動の理由であるべき」という哲学的な意味が込められているのではないだろうか。
もっといえば、他者に与えられた自己の意思を実現するための力や機会を持つ「積極的自由」はそもそも自由ではないとすら考えられる。自らのない自由は不自由なのだ。
決断の基準や理由は常に自らのなかにあり、その決断は自らによって由となる——
関連記事
Trajectory「情熱を持った行動が起こす奇跡」——Iolite vol.7 編集後記
blossom「持っているのは意味ではなく未来」——Iolite vol.6 編集後記