インターネットはプライベートとパブリックの境界線が曖昧になっている
——人々の生活の一部となっているSNSと現実世界との調和についてどのような見解をお持ちでしょうか?
佐々木俊尚(以下・佐々木):そもそもWindows95の発売をきっかけとして、2000年代にホームページを作る文化や「2ちゃんねる」などが生まれたわけですが、それまではインターネットと現実世界というものは何もリンクしてこなかったわけです。その頃、デジタルネイティブ第1世代である氷河期世代を中心として、インターネットは自由な大地であり何をやっても構わないし社会から批判されることもないという風潮が広まりました。いわば「閉ざされた楽園」という認識でインターネットは使われてきたのです。
そんなインターネットが社会的に脚光を浴びるきっかけとなったのが、自民党の故加藤紘一さんによる「加藤の乱※1」だったわけです。加藤さんはインターネット初期の頃からサイトを開設するなど精力的に活動していて、「加藤の乱」と呼ばれる倒閣運動の際にはネット上で支持を集めました。
しかし、実際に「加藤の乱」を起こすと現実世界では支持を集めることはできず、結果的に加藤さんの政治人生が閉ざされる出来事になったわけです。その時に「ネット上の言論なんて大した影響を与えない」という風潮が生まれました。
これを変えるきっかけとなったのが、2003年頃からブームとなったブログです。IT企業がブログサービスなどを一般に提供し始めたことで、弁護士やジャーナリストなど、専門的知見のある人たちが自由に意見を書き込むようになってきたんです。そうした状況から「ネット上の書き込みも馬鹿にできない」という流れが生まれました。
その典型的な例が「ライブドア事件※2」です。ライブドア事件を巡っては、新聞やテレビなどがいろいろなことを報じたわけですが、その時に弁護士などが専門的知見を踏まえてさまざまな報道を否定する論調が強まりました。これが社会に対して非常に強力なインパクトを与えた最初の出来事だったのではないかと思います。
そこからブログブームが去り、2010年代に差し掛かるとmixiや現在のX、Facebookが爆発的に普及して、専門家の知見などが広範囲にシェアされるようになりました。ここからさらにメディアとインターネットの対立軸というのは鮮明になってきたと思います。
—そういう意味でいうと、やはりインターネットが現実世界を飲み込みつつあるということでしょうか?
佐々木:そうでしょうね。あともう1ついえるのは、当初のインターネットはオタク文化の中心地であって、いわば遊び場だったわけです。しかし、SNSが爆発的に普及したことで、オタクではない一般人が入り込んできました。これによって当初遊び場であったインターネットの形が変わってきたのです。
オタク文化に関連していうと、アニメやマンガも今では一般化してきましたよね。昔ではなかなか考えられませんでしたが、今では国際的、国民的な文化として、もはや「オタクのもの」という見方ではなくなってきたと思います。これと同時に、ネット文化そのものも一般化してきたといえます。
しかし、その一般化したインターネットがそのまま現実社会とイコールでつながるかというとそれは違います。そこには現実社会とインターネット社会での構造の違いがあるからです。
——構造の違いとは具体的にどのようなところでしょうか?。
佐々木:たとえば数年前に「バカッター事件」というのがありましたよね?非常識として捉えられる行動を撮影してSNSにアップする行為です。あれも背景をみると面白い現象だと僕は思っていて、バカッターと呼ばれる投稿をしていたユーザーの多くはそんなにフォロワーが多いわけではなく、自らの投稿を見るのも主に友人が対象であったのです。しかし、Xというのはカギをかけない限りオープンな状態で情報が発信されますので、友人以外の誰かがたまたまその投稿をみつけて拡散してしまえば、全世界に悪質な行動が広まるわけです。
これが何を示すかというと、本来であればプライベートな空間とパブリックな空間が区分されているはずなのに、インターネットではその狭間が曖昧になって認識しにくくなっているということです。
これはあらゆる局面でも同じことがいえて、たとえば自分と似たような価値観や考え方の情報が集まる「エコーチェンバー現象」がありますが、仲間内で繰り広げられる同じような情報ばかりみていることで、全世界でも同じような考え方であると錯覚してしまいます。それゆえに、徐々に発言も過激になっていくことが多々見受けられると思います。
でも、これは現実社会ではありえない現象だと思うんです。現実では「ここまでは話してもいいけどここから先は止めた方がいい」という自制が働きますが、インターネットの世界に入るとその感覚が鈍くなり日常生活ではいわないようなことまでいってしまう。これがまさにプライベートとパブリックの境界線が曖昧になってしまう問題のあらわれだと思いますね。