初秋、金木犀の香りがふっと揺れる日。その甘い残香をかすめながら、人工的なキャラメルの匂いに誘われるように、私は映画館へと足を向けていた。知人が口を揃えて太鼓判を押す映画「国宝」。
世襲の色が強く、日本文化に根ざした歌舞伎を題材に、人々の葛藤の先に生まれる泥臭さと人間らしさ(美しさ)が見事に表現されている。継ぐ者・継がない者の揺れ、芸という“役目”と個人としての感情の衝突。たとえるなら、泥のなかで咲く蓮の花を描いた作品だった。
蓮の花は開花前の数日間、花托が30 〜35度を保ち発熱するという。泥水の底に根を張りながら、泥に侵されることなく静かに熱を宿し、やがて花を開く。その姿はどこか、作中の主人公・立花喜久雄の生き方に重なった。
古代エジプトでは創世神話において、蓮は「混沌の水」から最初にあらわれた花とされ、そこから太陽神が生まれ世界に光が満ちたと伝えられている。夜には水底に沈み、朝に再び開く性質は、死と再生、闇からの復活の象徴とされた。
不思議なことに仏教でも、蓮は泥のなかで育ちながら花に濁りをまとわない清浄の象徴だ。迷いや苦しみを抱えながらも、なお美しく咲く姿が悟りの比喩として語られ、仏の座は「蓮華座」として表される。
喜久雄の生き様も、この蓮の特性と似ている。「芸に魂を売る」という言葉があるが、彼は家族との断絶、スター街道から外れ小さな町の劇場で題目を1人演じざるを得なくなるような逆境、後ろ盾のための苦い選択さえ背負いながら、ただ芸の純度だけは手放さなかった。その穢れた選択が“芸の器”を守るための代償であったと思うと、胸が軋んだ。