
アレクサンドル・ワン
Scale AI社の共同創業者かつ元CEOであり、現在はMeta(旧Facebook)のチーフAI責任者。
1997年にニューメキシコ州で生まれた中国系米国人で、幼い頃からプログラミングや数学の神童として実績を残していた。MIT入学後、わずか1年で中退し、2016年にAIの学習に不可な「データラベリングとモデル評価サービス」を行うScale AI社を創業した。
人材のために企業を買う時代生成AI競争が生んだあたらしいM&A
生成AI開発で世界の最先端を行く米国のAI人材採用事情は、「ジョブ型雇用」の採用で右往左往している日本のさらに数段先に行く加熱具合をみせている。象徴する用語が、「アクハイヤー(Acqui-Hire)」だ。英語の「買収(Acquire)」と「雇用(Hire)」を組み合わせた造語である。
端的にいうなら、優秀な人材を確保するために、企業ごと買収してしまうという手段だ。
M&A(企業買収)というと、同業他社を買収し市場シェアを拡大したり、新規事業へ参入するためにノウハウを持つ会社を購入したりといった目的が一般的だろう。キャッシュを多く持つ企業を買収して資金調達力の向上を狙うといった特殊な事例もあるが、基本的には「少ないコストで事業を拡大すること」「ビジネス基盤を育てる時間をお金で買うこと」が目的だ。
ところが生成AIの開発トレンドの変遷はとにかく早い。そのため、ビッグテック企業がゼロから生成AI開発人材を育てているど"アキレスと”状態に陥ってしまい、永遠に追いつけなくなる。幸か不幸か、あたらしい産業である生成AI開発において注目されている企業はスタートアップが多い。そこで、シリコンバレーでは事業そのものの発展性よりも、優秀な人材獲得を主目的としてM&Aが行われるようになったのだ。
あくまで才能のある人材の獲得が目的のM&Aなので、買い取った会社の事業については考慮されないケースが多い。買収した先のサービスや事業がそのまま存続することは少なく、多くはサービス終了→人材が大企業発のプロジェクトに参加という流れになる。
この手法には批判も多い。「それまでサービスを利用してきたユーザーを切り捨てるのか」「事業価値が乏しい企業を購入することが人材獲得のコストとして正当化できるのか」「そもそも強制的な手段で採用した人材が、定着に結び付くのか」
などの声があがる。批判を受けビッグテックは、さらに絞った形での人材確保に動いている。それが「リバース・アクハイヤー(Reverse Acqui-Hire)」だ。ドライな目でみると、ビッグテックがほしいのは、プロダクトの開発を先導した特定の人材のみだ。そこで「スタートアップから主要人材だけを非常に高額な報酬で引き抜き、プロダクトや会社そのものは残す」という手法が使われ始めた。スタートアップは独立を維持できるためユーザーが不便となることもなく、優秀な人材のみ採用できるため、M&Aよりははるかに安いというのが大企業の言い分だ。
Keyword:リバース・アクハイヤー
大企業がスタートアップから主要人材を採用し、プロダクトや会社そのものは残すという採用手法。規制の目を逃れつつ、人材やイノベーションの源泉を獲得できるが、法的・倫理的な問題も多い。米国のAIやスタートアップを巡る過当競争環境において注目される戦略だが、多くの懸念も伴うため、今後の規制や業界動向に注目が集まっている。
企業ではなく人を買うリバース・アクハイヤーの課題
だが、スタートアップ企業からカリスマ的な人材が抜けた後に、その企業が無事に運営できるのだろうか。
2025年5月、AIによるコーディング補助ツール「Windsurf」を開発したスタートアップ企業・Codeium社をOpenAI社が買収しようとしていたとの報道が出た。Codeium社は2021年創業でありながら、OpenAI社が提示した金額は約30億ドル(約4,500億円)といわれ、典型的なアクハイヤーだった。この買収は、結局破談になったとされる。
報道が出てから2ヵ月後、現在AI開発競争に参画しているGoogleが、約24億ドル(約3,600億円)を支払い、Codeium 社のCEOら中心メンバーの移籍と、Codeium 社が所有していたー部独占ライセンスを購入したと発表した。
中心メンバーがいなくなったCodeium社はその後、現在AIエージェント開発で注目を集めるCognition AI社に買収されたが、技術と権利だけを剥がされもといた従業員らは解雇を検討されているようだ。また、今年6月にはマーク・ザッカーバーグ氏が率いるMeta社がデータラベリング企業のScale AI社の株式の49%を143億ドル(約2兆円)で取得したと発表。この出資は、同社の技術への投資ではなく、同社をここまで大きくしたCEOのアレクサンドル・ワン氏を引き抜くことが最大の目的といわれている。
Meta社は今後、ワン氏に同社のAGI、ASI開発のリーダーを任せる予定だという。
たった1人の優秀な人材に対して国家予算レベルの金額が動くようになってきた一方で、一般的に優秀程度の人間は容赦なく切り捨てられる。日本においてこのようなリバース・アクハイヤーの動きがあらわれてくるかどうか、注目したいところだ。
Windsurfを開発したCodiumを巡る一連の騒動は、リバース・アクハイヤーの問題を象徴する出来事として人々に刻み込まれることとなった。そもそも超高額でスタートアップや特定の人材を買い取ることが一般化すると、そこが人生のゴールとなってしまい、若者のイノベーションを奪うという意見があった。実態はもっと悲惨でイノベーション機会だけでなく職そのものが奪われたのだ。